場の描画技法: 〈グラレコ〉

ファシリテーターの思想
場の技法シリーズの9回目をお送りいたします。
今回は「描画」の技法の1つ、〈グラレコ〉について記しました。

〈グラレコ〉とは、グラフィックレコーディングの略称である。その場で話されている内容を、絵・イラスト・図・言葉などをグラフィカルに用いてリアルタイムに(即興で)描き取る技法である。〈グラレコ〉を活用にするにあたって注意が1つある。それは、〈グラレコ〉を見る者は、そのグラフィックがあくまでいち主体の見え方をコード化1したものであることに十分注意を払わねばならないという点である。(そのことについてファシリテーターは全員に対して注意を促す必要もある。)このようにまず書いておかねばならないくらい、グラフィックは強力な環境管理型権力を形成する2
〈グラレコ〉は広報(public relations)を重視したいイベントで有用だ。見栄えが美しくカメラ映えもするからである。たいていの人にとって美しいものを見ることは心地よい。ただしファシリテーションの文脈からいえばその〈グラレコ〉に記された文字や絵にあまり意味はない。なぜなら絵やイラストは言語でのコミュニケーションに比べて平等さに欠けるためである。言語はその場の全員がそれなりに操れるであろう3。言語に比べて絵やイラストはその得手・不得手、好き・嫌いが人によって左右される。非言語(ノンバーバル)によるコミュニケーションはたしかに重要だし、文字やテキストのみのコミュニケーションが世の中に増えて図解・絵・イラストなどが真意の相互理解を助けることもよくわかる。しかし図や絵やイラストはあくまでフェイストゥフェイスなコミュニケーションにおいてはサブであってメインとはならない。言語を補助するために図や絵やイラストが使われることがあっていいが、逆は成り立たないのである。多少の制限はあれど現代でも言語でのコミュニケーションは欠かせないし4、絵文字やスタンプが手軽とはいえチャットもテキストが主である。はじめから絵やイラストだけでコミュニケーションをすることと、言語だけでコミュニケーションをすることで、どちらが話し手の伝えたいことが伝わるかは明白だ5。 ましてやその絵やイラストが何らかの客観的な情報と言い張ろうとすることは、複数の主体が何らかの事象について了解するための手続きを無視し過ぎている6

言葉と絵。ロジックとエモーション。(この言い方は好みではないが)左脳と右脳。それぞれは別にどちらから始まったっていい。鶏卵関係だ。だから描くのであれば言葉を紡がねばならない。その場にいち主体として存在するのであれば、誰もがコミュニケーションしあえねばならない。描き手は当然そこに存在しているし、存在しているのであれば(仮になにも描いていなかったとしても)何らかの影響を周囲に与えている7。 だから絵やイラストによって権威を特定の主体だけが発揮できるようデザインされた場には、参加者への十分な説明と同意が必要である。説明と同意なくして〈グラレコ〉があることはフェアではない。もっといえば〈グラレコ〉を行う人間がもつ(本人さえも無自覚なものを含む)価値観による一方的な指示命令行為であり、全員の参加が大切とされるワークショップの価値観とは親和しづらい。そう、〈グラレコ〉は排他的なのだ。参加者同士のその場のやり取りを素材に、自身は描くという行為以外での参加を放棄し、神として砂上の楼閣を独りでつくっているに過ぎない。描かれる対象社会(つまりコミュニケーション中の参加者)に描き手の実存を投げ入れず自分とは関わりのない世界の出来事と見做している。まずいことに〈グラレコ〉という行為自体がそのメッセージを含んでいる。(描き手自身の内心はどうあれ。)だから、グラフィックをしていない人間はその楼閣づくりにさえ参加できない。描き手は、なんらかの色を選ばざるをえず、ゲストの似顔絵を描けば自分の作風も出ざるをえない。そこには模造紙の前に立たない者に対して作品への参加を拒否するナッジ8が存在する。その表現が巧みであればあるほど(つまり〈グラレコ〉が上手であればあるほど)、皮肉なことにそのナッジは強まる。そういった周囲への影響に無自覚で描き続け、それがさも「客観的な情報を描いている」と(暗にでも)謳ってはいないか注意が必要である。(参加者はそのような環境に身を置くことで自身の自由が制限されすぎてはいまいか注意が必要であるし、参加者一人ひとりのそういった内省が〈グラレコ〉の描き手を助けることにもつながる。)
繰り返そう。〈グラレコ〉に描かれることは場の客観情報たり得ない。だから議論や話し合いの支援には直接向かない。けれどもワークショップをはじめとした話し合いの場を彩る添え物としては優秀である。また描き手があくまでいち主体として場に関わろうとする場合、〈グラレコ〉は場の描画技法: 〈グラファシ〉と意味も接近する。状況に応じて技法(そしてその技法の呼び方)を使い分けるのがよいだろう。

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訓練を受けたファシリテーターを複数存在させることも有効だし、さらには参加者を巻き込んで技法選択を検討できるとなお良い。
各技法は、前後の技法の接着面を「場の設計技法」によって明文化することで初めて機能する。単体の技法のみの安易な導入は、場の失敗につながる。組織内の信頼関係を毀損しかねないばかりか、下手をすると一部の仲間に心の傷を負わせるリスクが発生してしまう。十分な善意と設計を熟慮してその場に臨むことがファシリテーターの義務であることを踏まえて、各種技法を活用して欲しい。

記:ワークショップ設計所 小寺
同じ著者の読みもの

付録

  1. コード化(encoding):主にカルチュラル・スタディーズでの用語。何らかの情報を我々は脱コード化(decoding)するが、それは元の事実をあらわすとは限らない、といった趣旨の主張はスチュアート・ホール[Stuart Hall, 1932-2014]の指摘。ロラン・バルト[Roland Barthes, 1915-1980]に言わせれば、〈グラレコ〉の描き手である作者は死んでいるのであり零度のエクリチュールにはなり得ない。(だから俳句なのだとは、筆者はあまり思わないが。)
  2. グラフィックのつくる環境管理型権力が裏目に出た事例を読みもの「環境管理型権力の功罪とファシリテーションへの応用」の後半で触れているので参照されたい。
  3. 言語にも得手、不得手は当然あるが、だからと言って言語以外のコミュニケーション手段に逃げ込んでよいことにはならない。
  4. メールも電話も原則言語を用いる。
  5. 聞き手によって異なる解釈を素材とした学習の場を設計したい場合はグラフィックが有効に働くこともあろうが、それはレコーディングではないため、〈グラレコ〉という呼称は適当でなくなる。
  6. 了解のためのすべての手続きを無視しないことが非現実的であることは認める。描き手に、その場の全員が了解できることの仮案作りを任せすぎなのである。それは参加者とグラフィックレコーダー双方にとっての不幸であると同時に場の創造性の低下を招く。
  7. どんな環境も設計されることが不可避であることについて、読みもの「ナッジ理論を用いたファシリテーターの環境づくり」の中で述べた。
  8. ナッジに関しては前掲の読みもの「ナッジ理論を用いたファシリテーターの環境づくり」で詳しく触れている。