幕間:2030年をおもう

ファシリテーターの思想
前回の読みものからの続きです。)

大小様々なインタビューやイベントなどで描かれた模造紙写真を頻繁に見かけるようになりました。グラレコの名を冠した市民講座や本格的なグラフィック講座も多くなったようです。デザインという切り口で見渡すと、美術系の大学でもデザインする対象をコミュニティ(モノでなくて人の集まり)にひろげて謳う学校もあります1。10年前にはなかった形で、えがくスキルを基点にしたコミュニケーションが広がり、そのプロセスを経てえがかれたコンテンツが活用されています。

これまでの10年は、通信インフラの進化、1人1台のカメラ搭載スマホ、画像が拡散しやすいSNSなど新しいテクノロジーがより身近に普及する歴史でもありました。ビジネスの文脈では成熟市場となり機能が似たりよったりになる結果、デザインで差異をつくらねば消費者に購入されづらい状況もあります。デザインに対する感覚を日々の生活のなかで磨かれる土壌ができています。消費者と生産者は一層シームレスな時代です。思えばこの10年と言わず、漫画やイラスト、アニメーションなどの抽象化と二次元描画はもとから日本のお家芸でした。鳥獣戯画の時代からやってますものね。

創作活動は人間ならではの楽しみであり喜びです。それに人が自由であることの象徴でもあり、豊かな暮らしを我々にもたらします。しかし、自己表現としての創作と、話し合いや場をえがくことの間には決定的な違いがあります。自分視点で自由気ままにやっていい表現活動と、複数の他者との関係が避けられない協働作業との違いです。はじめはまずやってみるが大事で、自分視点でかまいません。この道が楽しい、探求したいと感じたら、次は自分と他者の違いを理解すること(それは自分をより深く理解することでもあります)、他者を巻き込み全員が幸せになる未来をめざすという目標を持っていただけたら嬉しいな、そういう「えがく」人といっしょに社会を創っていけたらなと思います。

私には、手描きが愛されるこの状況は、デジタル側に人間側があわせていく過程で起きた摩擦のように思えるのです。アナログへの希求は人間らしさや生命、自然を実感したい需要にもみえます。これからの10年で、デジタル側も進化し人間側も更に適応していき、共存は進んでいかざるをえません。情報が爆発的に増える流れはとまらず、しかし情報とは自動的に生み出されたものであっても元を辿れば生身の肉体と自我を持つプログラマがその手で打ち込んだコードだし、そのプログラマは、私やあなたの知り合いの知り合いの知り合いで…意外と身近な、地球に住む仲間なのです。
顔をあわせて話すひとつひとつの場で共にどのような時間を過ごせるのか。その時間を目に見える成果や効率だけに集中しすぎないようにしたいものです。外からやってくるプレッシャー、自分の内側からくるプレッシャー。どちらへも対処する力をつけて、共に今日もえがき続けましょう。

記:ワークショップ設計所 後藤
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付録

  1. 例えば東北芸術工科大学にはコミュニティデザイン学科が2014年にできました。