板書が熟達することの悪影響

ファシリテーターの思想
前回の読みものからの続きです。)

始めは何とか書き終えるだけで精一杯だったのが、場数を踏み、だんだん上手にかけるようになり、参加者からもますます喜ばれるようになってくる。努力のかいがあった!と嬉しくなってくる。そこで落とし穴が現れてきます。

かき手が場を独占してしまう
板書は、かけない参加者(あるいはかきたくない参加者)から見ると難儀な作業です。たまたま絵や字やレイアウト使いに熟達した「絵が上手い」かき手がかくと、今度はアートを眺めている快感も手伝い、その板書(のように見える即興アート)をずっと眺めていたい気分に傾きます。自分にはできないこんなに大変な作業を良かれと思って担当してくれているのだからという思いから、記される内容について「その記述は余分ではないですか?」「今の要約は私が言いたかったことと違います」と邪魔をしたり水をさしたり、ましてや「絵がド下手くそ」な自分が板書に書き加えるなんて思い付きもしない、という方向へナッジ1がかかりやすくなります。

このナッジが続くと、参加者は板書役に過度に依存することになります2。本来なら、板書の書き手は、会議参加者の誰かひとりではなく全員が担うべきです。最初は誰かが始めるので良いのですが、チームののぞましい発展の方向は、会議の成果を出すために板書を含めた場の技法をチーム全員が使いこなすことです。板書のスキルに熟達した方は、自分の影響力に無自覚ではいけません。えがくというパワーを自分ひとりが行使するだけでなく、他の人も行うように働きかけることも大切な仕事のひとつになります。なぜなら適切に場を扱える書き手が増えることで、自分が出席していない他の会議についても生産性があがるという連鎖が生まれ、チームや組織の益となるからです。回り回って自分の益にも繋がります。

記:ワークショップ設計所 後藤
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連載タイムライン

付録

  1. ナッジについては読みもの「ナッジ理論を用いたファシリテーターの環境づくり」をご覧ください。
  2. 板書役も参加者に依存しているため、共依存にも陥るといえます。