(インターン生より) 公教育とファシリテーション

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科学の授業とファシリテーション

生徒がファシリテートされると科学の理解が深まるのか

「事実を科学に高める中学校理科の学習指導-教師のファシリテーションを通じて-」という論文1を見つけたとき、科学の授業でファシリテーションを導入することに意味があるのかと疑問に思った。というのも科学は、数式やとある法則を勉強し、繰り返し演習問題を行なうことで理解が深まると考えているからだ。ファシリテーションを行うことで、気づきは得られるかもしれないが、科学の理解度が高まるとは思えなかった。しかし、論文を読んでいくうちに自身の考え方が変わり、「あれ、もしかしたらファシリテーションをされた生徒は科学ができるようになるかも」と感じた。

「論理性」を鍛えられる可能性あり

私が見つけた論文(前掲論文)では、科学は様々な情報から自分なりに考え法則を見つけ出す「論理性」と、自己の理論が他者に影響したり、他者の理論が自己に影響したりする「客観性」が必要であると述べられているが、私も同意である。理由は簡単で、科学とは「どうして」と「誰がやっても同じ結果になる理論」を極める学問であると考えているためだ。生徒がファシリテーションをされ、自力で答えを発見し気づきを得た場合、どうしてこの答えになったかという理屈を生徒自身が説明できる可能性が高い。ゆえに、先生がファシリテーターとして振る舞いをすればするほど、生徒の論理性を鍛えられると感じている。

生徒によっては違う解釈になる可能性あり

一方で、先生がファシリテーションを行ったとしても先生が望む答えを皆が築けるとは限らないと思っている。例えば、先生が「水は100度付近で沸騰しはじめる」という気づきを与えるプログラムを組んだとしよう。多くの生徒は、「水は100度付近で沸騰するのか!」と理解するが、少数の生徒は「100度付近に水が達したら、やけどをしてしまう!」と別の解釈をしてしまうかもしれない。ここで言いたいのは、ファシリテートをしたからといって「全員」が同じ答えにたどりつくわけではないということだ。しかしながら、科学は何か既知の実験をした場合、本来であれば「全員」が同じ答えにたどりついていなくてはならない。また非常に危険なのは、生徒が「同じ実験をしても皆が同じ結果にならなくていいのだ」と誤った解釈をしてしまうことである。ゆえに、生徒にファシリテーションをする際には、入念な設計が必要不可欠である。

テストの成績アップにはつながる可能性あり

ファシリテーターを導入した授業をすることで、論理的に物事を考える能力が育つ可能性が高いことを私は先に述べた。論理的に物事を考えられると、学校が実施している科学のテストの点数は伸びるであろう。というのも、ただ丸暗記をするのではなく、論理的に考えられることで、この式、法則にはこういう意味があったのかという本質を見抜いた思考が身に付くからだ。しかしながら、今のような先生が一方的に生徒に教えるという受動的な授業を行い、事実をすんなり受け容れさせた方がスムーズに科学を理解できる生徒もいるので、場合分けをし、授業することが望ましいと感じている。

学習意欲の醸成

「失敗が悪いもの」と認識されているのは日本の教育が原因か

失敗したら怒られる。そんな経験があるせいか、失敗を恐れており、失敗は悪だと思っている人が多いように感じている。加えて主観ではあるが、「失敗をしても良い!」と普段から話をしている人ほど、いざ取り返しの難しい失敗をすると、「誰が責任をとるんだ!」と怒りをあらわにしている傾向があると個人的に思う。また、「日本語教育における『ファシリテーター』の役割」という論文2を読み、失敗が悪いものだという認識は日本の教育に原因があるのではないかと改めて思った。

「路線型」教育が元凶なのではないだろうか

日本は良くも悪くも年功序列の文化が残っており、年齢が上の人の言うことは正しいみたいな風潮がどこかにあると私は思っている。敬語の概念がある以上、日本は根本的には年功序列から抜け出せないように感じる。それゆえに、先生と子供がいた場合、先生が絶対的な権力をもつ。ある教育目標に向かって作った線路を学習者が横にそれることなくまっすぐに進む教育を「路線型」教育と呼んでいるが(前掲論文)、この教育法は、先生が子供の進む道を完全にコントロールしている。すなわち、自分が正しいと思ったことを子供に教え、その行いどおりに子供が行動すると褒め、逆に子供が自分の教え以外のことを行うと注意または怒る傾向にある。子供にとって、怒られる経験は成長と同時に恐怖感を植え付けてしまうのではないかと私は考えている。ゆえに、「路線型」教育のせいで、子供は怒られることを恐れ、失敗をしたくないと思っている。それゆえに「路線型」教育は子供の可能性をつぶしかねない。どこかで「路線型」教育を閉ざさない限り、失敗を恐れないで何事にも挑戦できる人は増えないであろうと私は考えている。

「ガードレール型」学習で適度な指針を

一方で、ファシリテーションを取り入れた学習を「ガードレール型」学習と呼んでおり(前掲論文)、教育目標は明確にされているものの、ある一定の範囲、幅の中で学習者は自由に活動できる。この学習法では、学習者同士の相互作用を活発化させるので、相互に学ぶ中から気づき、学びを生み出す効果がある。ゆえに試行錯誤をしながらに自分の過ちに気づき、「次はこうしてやろう!」という意欲が生まれる可能性が高いと感じている。

失敗を恐れない人を増やすには

子供が受けている授業形態を「路線型」から「ガードレール型」に変えなければ、失敗を恐れる人は減らないであろう(失敗が悪いと思わせない教育は、完全に「路線型」教育から指針を変えなければならないと私は感じている)。教えるのではなく、気づかせる。何が正しいか間違っているかを気づかせてあげるのが、先生や親の役目であると私は思う。

ひとりの人間として向き合うこと

もしも教師がファシリテーションスキルを身につけたのなら

自ら課題を見つけ出す力・解決策をつくる力 3。私がこれらの言葉を聞き始めたのは、社会人になってからだろうか。子供のころは基本的に課題を与えられ、解答も用意されていたので、課題を探さなくてもよかったし、解答も血眼になって見つける必要はなかった。大人になるにつれ、課題や解決策を見つける重要性を知り、子供の頃から課題発見力と課題解決力を身につけておくべきだったと感じている。もしも教師がファシリテーションスキルを身につけたのなら。子供は課題発見力や課題解決力は身につくであろうか。また、他には何が期待できるのであろうか。私なりの見解を記述する。

自発的に学ぶ習慣が身に付くと推測

私が経験してきた授業は常に受動的なものであった(先生が問題を出題し、先生が解説する一般的な授業形態であった)。ゆえに、問題を与えられるのが「当たり前」だと思い込むようになり、自発的に問題を解こうという気になれなかった。もし、先生がファシリテーターだったら。先生が問題を与えなくとも、生徒自身が問題を見つけてくると私は考えている。というのも、先生がファシリテーターとして振る舞うことで、問題解決の楽しさを生徒に気づかせてあげられると私は考えているからだ。生徒は、楽しいことなら自ら進んで勉強し、問題を解くと私は思う。

いじめが解決する可能性あり

教師がファシリテーションスキルを身につけた場合、学校で起きているいじめが解決するのではないかと私は考えている。というのも、先生がファシリテーターであるならば、自分の意見を押し付けるのではなく、生徒の意見を引き出すことにフォーカスするだろうからだ。通常先生にいじめを相談できない原因は、先生がいつも一方的に生徒に自分の考えを押し付けていることだと私は考えている。ゆえに、先生の押し付けがなくなった場合、生徒が気軽に話せるだけでなく、どうしていじめが起こったのかや、被害者の今の気持ちなどを上手に引き出すことで、いじめを解決できると私は考えている。

「教える」から「引き出す」にはどうすればよいか

ファシリテーターのスキルを磨くために先生は、もしかしたらファシリテーターを専門としている人の指導を受けたり、「ファシリテーションスキルの鍛え方」みたいな本を読むのなどをすると思う。もちろんこれらも重要であるが、それ以上に私は、生徒と向き合うことが大切だと考えている。その理由は、生徒と先生が交流なくしては、引き出せるものも引き出せないと感じているためだ。例えば同じファシリテーションスキルを持っている先生が2人いるとしよう。一人は昼休み中、事務机で作業をしていて、もう一人はドッチボールなど子供の輪の中に入り込んでいるとする。おそらく後者の先生の方が子供から何かを引き出せると感じている。普段の生活の中で、生徒たちと同じ立場に立って、行動を共にしたりすることが重要なのではないだろうか。そうすることで、生徒の本音が引き出せると強く感じている。

記:インターンシップ生 松本
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付録

  1. 渡壁克之(2018).事実を科学に高める中学校理科の学習指導-教師のファシリテーションを通じて-, 福岡教育大学大学院教職実践専攻年報, 8, 71-72.
  2. 橋本智(2013).日本語教育における「ファシリテーター」の役割, 徳島大学国際センター紀要, 17-21.
  3. 武田正則(2013).アクティブラーニングにおけるファシリテーション導入の方策と課題, 日本教育情報学会 第29回年会, 66-69.