内面化した規範からの解放、そして再内面化
内面化とは、以下のような意味を持つ言葉で、内在化とも言います。
内面化
外から与えられた知識・価値観などを自らのものとして取り入れること。
新村出編(2008)『広辞苑』第六版, 岩波書店.
かつてフーコーは、規律訓練によって権力者の視線がミクロ化し私たちに内面化していることを指摘しました1。例えば私たちは学校で「カンニングをしてはいけません」と指導されます。試験において、試験官が受験者全員を注意深くみていなくとも、受験者がカンニングをしないのは、試験官という権力者の視線が受験者の中に内面化しているためです2。
フーコーのいう規律訓練(discipline)には環境管理も含んでいました。ですから、もちろん内面化は、「カンニングをしてはいけません」といったようなわかりやすい指導によってだけではなく、環境によっても私たちに絶えず起こっています。例えば椅子が正面に固定されている教室環境は、「正面に立つ教師とコミュニケーションする」という規範の内面化を私たちに促します。固定された椅子は、先日の記事で紹介したアーキテクチャ(環境管理型権力)にあたりますが、明快な指示や指導に比べてはるかにわかりづらい形で私たちに規範の内面化を促してきます。
ワークショップや話し合いにおいて、ファシリテーターは参加者が内面化している規範を注意深く観察する必要があります。ファシリテーターとしては参加者同士で話し合ってほしいにも関わらず、「こういう場では正面に立つ人間とだけコミュニケーションすればよい」という規範が参加者に内面化されているようであれば、そこから一旦解放できるような工夫が必要です。ファシリテーターは、事前にプログラム上の準備をしておいてもいいでしょうし、当日の状況を見て振る舞いを変えてもいいでしょう。そして、この集団の、今この瞬間における規範を再構成し、再び内面化を試みる時間がワークショップを始めとした話し合いの時間であり、この共同作業をチームビルディングと呼びます。
ナッジされない参加者の歓迎
ワークショップ設計は、先日の記事で紹介したナッジ理論の提唱者セイラーとサンスティーンの言う「リバタリアン・パターナリズム」を縮小解釈したような考え方です。
リバタリアニズムとは個々人が自由にふるまえば良い社会になるよという主張で、パターナリズムは偉い人がみんなを助けた方が良い社会になるよという主張、というのがものすごくざっくりとしたそれぞれの考え方です。
リバタリアニズム
リバタリアニズム(英: libertarianism)は、個人的な自由、経済的な自由の双方を重視する、自由主義上の政治思想・政治哲学の立場。新自由主義と似るが、これが経済的な自由を重視するのに対し、リバタリアニズムは個人的な自由も強調。他者の身体や正当に所有された物質的、私的財産を侵害しない限り、各人が望む全ての行動は基本的に自由であると主張する。
「リバタリアニズム」(2018年12月30日 (日) 11:09 UTCの版)『ウィキペディア日本語版』より
パターナリズム
パターナリズム(英: paternalism)とは、強い立場にある者が、弱い立場にある者の利益のためだとして、本人の意志は問わずに介入・干渉・支援することをいう。親が子供のためによかれと思ってすることから来ている。日本語では家族主義、温情主義、父権主義[……]。語源はパトロンの語源となったラテン語の pater(パテル、父)である。
「パターナリズム」(2018年2月27日 (火) 3:57 UTCの版)『ウィキペディア日本語版』より
ナッジとは、選択の自由を前提とした上で「こっちの方がいいよ」とさり気なく選べるように偉い人がつくった仕組みでした3。自由に選択できる点でリバタリアニズムと符合しますし、ナッジは良かれと思われる介入・干渉・支援の形です。ですからセイラーとサンスティーンはナッジを説明する際「リバタリアン・パターナリズムは矛盾した言葉ではない」と言います。
ファシリテーターは、基本的に「こういう場になったらいいなぁ」とアーキテクチャを置き、さらにはナッジを繰り返します。一方で、ナッジしていない選択肢を参加者が選ぶことを想定するし、もっといえば、そちらを期待します。
例えば、用意したプログラムの中盤で、「そろそろ参加者は疲れるだろう」と休憩の時間を用意していたとします。後半、さらに疲れるだろうテーマを予定していたこともここで休憩をはさみたい理由の1つでした。当日、予定通り中盤に差しかかり、やはりどう見てもみんなヘロヘロで疲れが見えてきました。
そこでファシリテーターは予定通り、参加者に声をかけました。
一旦休憩にしませんか?
休憩を選択しませんか?というナッジです。
これに対して、参加者の一人から、
いや、ここで休憩はもったいないと思います。
もっと話したいです。
と声が上がりました。
ファシリテーターとしては想定外の展開です。参加者の一人は、「ここで休憩する」という選択をとりたがっていません。ファシリテーターにナッジされなかったわけです。
さぁ、あなたがファシリテーターだったらどうしますか?
いくつかの対応が考えられますし、どのような対応がいいのか正解もありません。
私がここで言いたいことは、ナッジされない参加者をいつも歓迎することがファシリテーターのあるべき態度だということです。
しかし、ナッジ理論ではナッジされない人々をあまり歓迎しません。
つまり、「間違った選択をしてしまう自由」も残すべきなのだ。
行動経済学で人の心を操る現代の魔法「ナッジ」とは何か|ノーベル経済学賞セイラー教授の「発明」 | クーリエ・ジャポンより
果たして、ファシリテーターがナッジしたかった「休憩をここでとること」は正しい選択で、参加者の1人が声をあげた「休憩をせずに話し合いを続けること」は間違った選択なのでしょうか。けっしてそんなことはないはずです。
多様なファシリテーター育成のためのワークショップ設計技術
ファシリテーターも、とどのつまり人間です。そのナッジが正しいのかはわかりません。ファシリテーター自身がこれまでの人生で内面化してきたさまざまな経験とその意味づけが、彼/彼女のつくるそのアーキテクチャとナッジに少なくない影響を与えています。しかしながら、アーキテクチャもナッジもまったく無である・ゼロである環境はあり得ません。かと言って何もせず、耳と目を閉じ口をつぐんで孤独に暮らすわけにもいかないのが人間社会です。
そうなってくると、参加者はその場のファシリテーターの示すナッジやアーキテクチャに従うか否か、何を基準に判断できるでしょうか。最終的にはその場を設計したファシリテーターが「いい人であってほしい」という漠然とした倫理や願望にしか、私たちは頼れるものが無くなってしまいます。
おそらくいい人であろうファシリテーター(あるいは経営者、あるいはリーダー)のつくるナッジに身を任せ続けることは楽かもしれませんが、ナッジする側される側の双方にとってそれが持続可能な関係のあり方なのか、大きな疑問を感じます。
私の場合、だれもが小さなファシリテーターとしてだれかをナッジし合える能力を高める必要を声を大にして言いたい。長期にわたってファシリテーターを1人に任せ続けてしまえば、単なるパターナリズムに陥ります。多くのファシリテーターが自分の内面化された価値観を元に場をつくり他者をナッジしながらも、共に学びあい、また新たな価値を内面化し合っていく、そのためのワークショップ設計技術です。
ナッジ、アーキテクチャ、環境管理型権力といった概念を、ファシリテーターの中立性をスタートにここまで書いてきました。私も不勉強ながら一旦言葉にまとめたような節があります。こういったテーマで意見交換されたい方は、私たちワークショップ設計所の「オンライン談話会」へお越しください。詳細や参加費用、お申し込み方法などはこちらのページでご覧いただけます。あなたと共に探求の旅を歩めればと思います。
記:ワークショップ設計所 小寺
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付録
- ミシェル・フーコー(Michel Foucault, 1926-1984)は、著書『監獄の誕生―監視と処罰―』(田村俶 訳, 新潮社, 1977年)で、人類の残虐な身体刑や懲罰(それは実際の身体とは別に意味付けされた王の政治的身体に対する負の祝福)の歴史から政治的あるいは経済的位置付けや人間的なるものの認識を踏まえた上で、「権力者の視線の作用」という最小限のコストで従順な人間を作り出す教育装置として監獄を説明し、修道院・軍隊・労働者共同住宅地・学校・工場・仕事場・病院などの都市施設は同じ原理によって人々に規範の内面化を図るものであることを指摘しました。
- さらに言うならばフーコーは、あらゆる言論活動それ自体が権力的に作用することをも指摘しています。その意味では、今あなたが読んでいるこの文章も権力の再生産に加担しています(それが善いことか悪いことかは別として)。そしてこの加担行為は、不可避的と言わざるを得ないのでしょう。フーコーによれば。
- ナッジはそもそも、2000年代初期の米国において、年金や貯蓄や医療に直結する特に金融関連の公共サービス改善のためのラディカルなアプローチとして登場しました。つまり、商業的搾取や政府による操作のためではなく倫理的な概念としてまとめられた理論です。