前回記事からの続きです。
新しいアートとして
最後に、話を描き記す目的として「即興アート」の意味が含まれることを指摘します。注意いただきたいのは、「出来上がった模造紙がアート作品である」と言及したいのではないということです。
講演者と聴衆の話し合いや相互作用(※)が、限られたスペース(1〜数枚の模造紙)に即興的に描かれていく過程そのものが、現代においてアート性を帯び、そういった性質が「話を描き記されること」を鑑賞する面白さを生んでいます。(※一見、一方通行型の講演会であっても、聴衆がいるのであれば言葉が交わされずとも、講演者と聴衆の特に各人の心的過程において、相互作用が起こっています。)
「即興アート」という目的には、先の「相互理解の促進」や「記録」といった明瞭な有用さがありません。話し手と聞き手と、描き手さえもの価値観を巻き込んで、(話し合いであれば、参加する全員を巻き込んで)思いや気持ち、結論といった何かがその空間に混じり合っていくその1秒1秒の瞬間とその移り変わりが、とてもエキサイティングで我々の何かを刺激するのです1。
話が即興的に描き記されていく過程は、アナクロなようで先駆的のような、そしてどこか物珍しくもあります。また、描き記されたものの出来栄えがたとえグシャグシャなものであったとしても、その空間を共有した人間と人間がぶつかり合い響き合った姿の一端を可視化したものが間違いなくそこに在って、ある種の「美しさ」が漂うように私は思うのです。
最後に
実際はこれまで挙げました3つの目的「相互理解の促進」「記録」「即興アート」が複合されて、「グラフィックレコーディング」(あるいは「ファシリテーショングラフィック」)が行われます。
始めの記事の冒頭でふれました基調講演では、会場の左壁側面に担当者がいろいろと描き記していましたが、講演中は講演者も聴衆もだれも注目していなかったことが残念でした。(貼られた模造紙の場所が注目しづらい場所でもあったのですが。)
そのため、「相互理解の促進」と「即興アート」の目的があまり達成されず、講演後の「記録」としても少々もったいない使われ方になってしまっていました。
なんのために講演(あるいは話し合い)を描き記すのか、描き手はまず目的をきちんと自覚し、その場の運営スタッフと十分吟味し、自身がハンドルを握ってチームやコミュニティでリーダーシップを存分に発揮してもらえればと思います。
注)この記事は、(株)ピースオブケイクのWEBサービス「note」で2016年12月14日に公開した記事を、加筆修正したものです。
記:ワークショップ設計所 小寺
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