ワークショップの多面体 —他者の効果—

経営と組織観

例えばマインドフルネスの流行

マインドフルネスの流行は、もう落ち着いているのだろうか?
企業研修や自己啓発市場では、毎年なんらかの新しい話題が持ち込まれ、多少の盛り上がりを見せ、そしてまた新しい提案にとってかわられる。

ファッション業界はパリコレから一定期間後に流行するであろう色やスタイルがわかると聞いたことがあるが、組織開発や人材育成界隈では、以下のようなところから流行の芽が生まれる。

  • 海外から輸入してきた翻訳コンテンツ(「Teal組織」や「学習する組織」等)
  • ATDなどの国際カンファレンスで掲げられるキーワード(タレントマネジメント、マイクロラーニング、レジリエンス等)
  • 国内なら元Google、元アクセンチュア、元大手企業CXOなど、権威者が提示する概念や形式

意外と長年定着するものは少ない印象で、盛り上がっているように見えても1年もたたずに消えるものもあれば、2~3年続いてやがて忘れ去られるものもある。

マインドフルネスは、恐れずにざっくり言うと瞑想や座禅ではないのか?
なぜそれが、あたかも新しく画期的なノウハウのように大々的にPRされるのかと不思議だった。
1960年代、アメリカの西海岸で東洋思想がもてはやされた時期があったけれど、ファッションの流行が一巡するように、内省ブームが巡ってきたのだろうか。

「あの」Googleで導入されているという実績が効いたのかもしれない。
Googleの時価総額チャートやそのサービスの広がりとマインドフルネス導入との関連が科学的に裏付けられたわけではないだろうが、「だれもが認める大企業が導入しています!」は、組織へ導入決断する際のよい理由となる。

マインドフルネスが登場するもう少し前に、写経ツアーや座禅ツアーが個人旅行の企画として女性に人気が出た時期があったが、それもいってみれば内省することが個人にとって有益な時間、行為となる土壌があったせいだろう。ところで女性とワークショップ、という切り口はなかなかに興味深く、数十年前の日本ではエンカウンターグループという、これもアメリカ西海岸から輸入されたスタイルのものが一定の支持を得た。また別の機会に取り上げてみたい。

マインドフルネスとワークショップ

座禅や写経、マインドフルネスは、集団でその手ほどきを受けていても、その作用や作業は一人ひとりの内面で行われる。
個別の宇宙がそこに人の数だけ存在している。

ワークショップはといえば、ひとりで行う作業もあれば、2人のもの、3人のもの、4人のもの、5~6人のもの、数十人のものまである。
日本では数百人単位は数えるほどだが、事例はなくもない。
海外では数万人で行った事例もある。
ワークショップが開催されることとなった背景や目的に応じて、無数のバリエーションが存在している。

マインドフルネス的なものに少なく、ワークショップ的なものが重視することで決定的なことは、他者という自分ではない自我との触れ合いが、その構造に組み込まれていることだ。

ワークショップを設計するということは、その触れ合いを通じて、なにか、参加者や参加者が属するコミュニティへ良い影響を生み出そうと知恵を絞ることである。
関わった全員(それはファシリテーターも含めて)の益となる時間を過ごせるように願って、創意工夫を積み上げる行為といえる。

もちろんワークショップは魔法の杖ではない。
人と人が協働するなかで起きる問題を、1週間程度で、ましてや1日2日でなにもかも解決できるわけがない。
それでも、人と人が接する多くの場面で、流されたり強要されたりする決まり方を減らし、それぞれが自らの納得のもとに主体的に決める・動くという歩み方へ転換する機会となり得ることは間違いない。

他者と共に

単純作業は機械やAIで賄えるようになっていく。
自動化され、速く短く処理できる領域が増えていくなかで、複数の人がいなければ成り立たない営みは消えない。
法律や政策といったルール決め、経営方針やビジョンの策定、資源の配分先の決定、チーム内の役割分担、自分のキャリアや生き方の決定、家を買うか賃貸にするか……たくさんある。
独力で自己責任のもとに決める1には荷が重いこと、そういう場面で個の内省は大事ではあるだろうが、他者と触れ合うワークショップは意思決定の支援として同じくらい有効な打ち手といえる。

付録

  1. 自己責任からの解放を環境管理型権力の視点から述べた読みものが「環境管理型権力の功罪とファシリテーションへの応用」である。