(応答1) ファシリテーターがついにデジタル化!?

ファシリテーターの思想

設計所より

人がファシリテーターを担うことの不確実さは、希望なのか、排除したいリスクなのか。自分の立ち位置を問われるテーマだなと思いました。

個人的に、ここ数年で一度ならず耳にした、ファシリテーションに関する感想が思い出されます。すなわち「ああ、ファシリテーションね。職場で経験したけど、あの時、あの人がやっていたことが“ファシリテーション”だ、あの人が“ファシリテーター”だっていうなら、私は(僕は)好きじゃないですね……」といった類のことです。これらの台詞に登場する『あの人』が、どういった場で、具体的にはどのような振る舞いをしたのか、どういう人間関係やしがらみ、肩書や責任を負う立場の人であったのかはそれぞれ異なった、でも感想を聞いた側としては同じ印象をもつ『あの人』問題。

『あの人』が生身の人間でなくデジタルな存在であったなら、もっと好ましい結果になったのかもしれません。職場の会議では、ファシリテーターを担った某人が、参加者のうちの一人と、例えば常日頃から社内出世をかけて競争関係だとか、みんなには内緒だけど10年前に付き合っていて浮気が原因で別れた相手(笑)だとか、生身の人間ならではの諸事情を背負ったまま向き合わざるを得ない場合があります。デジタルファシリテーターならそういった諸々は起き得ないわけで、そのおかげでマイナス要因が減ることはあるのかもしれない。しかし、年をいくら重ねても変化し得る人間という生き物に思いをはせたとき、人が役割を担うことをリスクとして切って捨てることが最善なのかがよくわからないのです。

たとえば松本さんが仰る「場がピリっとしたとき雰囲気を緩めてあげた」場面について、ちょっと想像してみてください。売上達成が難しいなかでの営業会議。重苦しい空気を緩めてあげた人は、今までいつも売上目標達成にしか興味がなかった鬼部長。ところが今回は違った。チームメンバーの心境を慮り、不器用ながらもがんばって笑顔を作り、「なんだか空気が固くないか?……ちょっと一息、入れようか」と口にする。……こんな状況だったらどうでしょうか。そこにはデジタルファシリテーターでは生まれない、何かチームが良い方向へ動き出す可能性があるように私は思うのです。結果を出すと保証はされない不確実なその可能性を、私たちはどのように扱えばよいのでしょうか。

結論としては私も松本さんと一緒で、時と場合によるとしか今は言葉をもちません。その時と場合を選ぶ立場に自分がたったとき、目の前の状況から何を認識し、どのくらいのスパンで考え、どういう価値観や哲学にもとづいて決めるのか。これはファシリテーターだけでなく、テクノロジーという選択肢と共存するひとりひとりが直面していかざるを得ない課題なのだろうと感じました。

記:ワークショップ設計所 後藤
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