ファシリテーターが「政治」を学ぶ有用性
「政治にはあまり興味がなくて……」
日常会話で、こういう言葉を耳にすることがあります。
自分とは関係のない、遠い世界の話として距離を置きたくなる感覚です。
「政治」と聞くと、選挙や派閥争いを思い浮かべる人もいるかもしれません。
そもそも「政治」とは、いったい何なのでしょう?
政治学者ジェリー・ストーカーの議論を借りれば、政治とは次のように表現できます。
- 利害や価値観の異なる人々が、〈困難な調整 Tough Process〉を経て「集合的な決定 Collective Decision-making」を絞り出し 、その結果を構成員全員が(たとえ同意していなくとも)従うことが可能になるプロセス。
このように考えたなら、私たちが日々行っている話し合いや、チームでの会合——異なる意見を持つメンバーが集まり、一つの結論を出し、その決定に全員で取り組もうとする営み——は、「政治」そのもののように見えませんか。
「政策」と「政治」は異なる
ニュースで流れる「政策(税制や外交)」に関する議論を「政治だ」と捉える向きもあるでしょう。
私たちが普段「政治」という言葉で一括りにしているものの中には、「政策」が混在しがちです。
政策 Policy とは、「何をするか」という解決策の中身(コンテント)を指します。他方、政治 Politics とは、「それをどうやって決めるか」という過程(プロセス)の話に相当するでしょう1。
あえて職場の文脈に引きつけてみます。
例えば「オフィスのレイアウト変更」というケースで考えてみましょう。
「コミュニケーション活性化のためにフリーアドレスにしよう!」
という意見と、
「集中できる固定席を残してほしい!」
という意見が出されていたとします。
このとき、「フリーアドレスのメリットは?」「固定席のコストは?」を話し合うことは、「政策(レイアウトの中身)」についての議論です。
こうした「中身」の議論の背後には、常にもう一つの、より根本的な問いが隠されています。
「最終的に、この異なる複数の意見をどうやって決着させるのか?」という「決め方」の問いです。
社長の一声で決める、いわゆるトップダウンという方法もあるでしょう。
あるいは、全社員の投票による多数決という、「数の論理」で決める方法も考えられます。
各部署の代表者を集めて話し合う、代議制のような形をとることもあれば、現実には声の大きい部長の意見を忖度するという、パワーゲームによって決まることもあるかもしれません。
この「決め方の議論」こそが、「政治」と呼ばれるものなのです。
ここまで聞くと、伝統的なリーダーシップ理論を思い出す方もいらっしゃるかもしれません。
経営学において、R.タンネンバウムとW.H.シュミットが「リーダーシップ行動の連続体 Continuum of Leadership Behavior」として、上司が独断で決める(Tell)スタイルから、部下に委譲する(Delegate)スタイルまで、意思決定にはグラデーションがあることを示したものです。
しかし、この理論はあくまで「上司と部下」という「マネジメントの枠組み」の中でのことです。
日常のオペレーションにおいては、この縦の関係や既存の制度が効率的に機能することも当然多いでしょう。しかし、事務所のレイアウト変更や共有ビジョンの策定など、その場にいる全員が当事者であり、影響を受ける問題に対しては、この「上司がどこまで決定するか」という縦の関係や制度の運用だけで対処しようとすると、必ず歪みが生まれます2。「なぜ、私の働く環境に関するあらゆることを上司が決めるのか?」という素朴な問いに答えられないからです。
私たちは「経営(マネジメント)」の枠組みから一歩踏み出し、対等な人間同士がどう合意形成するかという「政治」の枠組みで、この問題を捉え直す必要があるわけです。
もし、社長の鶴の一声(トップダウン)でフリーアドレスが導入されたとしても、社員の方々が「自分たちの意見が無視された」と感じていれば、その新しいオフィスは、コミュニケーションを生むどころか、誰も寄り付かない「よそよそしい空間」になってしまうかもしれません。
逆に、手間がかかっても全員で対話して決めたなら、たとえ完璧なレイアウトでなくても、皆が納得して使いこなすでしょう。
「どういう決め方なら、反対意見を持っていた人もその決定に従おうという面目を保てるだけの『正統性』を担保できるのか?」
この問いに向き合い、価値観の対立を調整したり、新たな案を創出しようとするプロセスのすべてが、政治的営みです。
「熟議」への転回 Deliberative Turn
いま世界を見渡せば、選挙での投票や多数決の質をより豊かにするために、対話を通じた意思決定を重視する「熟議論的転回(Deliberative Turn)」という潮流が生まれています。
複雑化した社会課題は、もはや「A案かB案か」の単純な多数決や、強力なリーダーのトップダウン、あるいはデータ分析による「最適解」の導入だけでは解決できなくなっているからです。
これは、企業組織においても同様でしょう。
「正解」のない問題に対し、いかにメンバーが納得できる決定を導き出し、その実行にコミットしてもらうか。
そのためには、結論の内容的な正しさ(正当性、Rightness)だけでなく、そこに至るプロセスにおいて「必要な手続きが踏まれたか(熟議されたか)」という「正統性(Legitimacy)」の調達が不可欠になっています3。
チームの営みは「政治」の現場である
以上のように捉え直すと、ファシリテーターが日々行っていることは、まさに「政治」そのものと言えるわけです4。
プロジェクトの進行やチーム運営において、ファシリテーターは、「A案にするかB案にするか(政策)」の議論を見守りながらも、同時に、そのメタレベルにある「この合意形成プロセスをどう設計するか(政治)」を考えています。
「ここは多数決ではなく、時間をかけて対話を尽くすべきだ」と判断したり、「声の大きい人の意見だけでなく、沈黙している人の声も拾おう」と介入したりする。あるいは、ビジネスにおいて納期が切迫した場面では「リーダーがすべてを決定する」という決め方を採用することもあるかもしれないでしょう。
いずれの場合もこれらは、そのプロジェクトにおける「意思決定の正統性」を担保しようとする行為に他なりません。
もし、ファシリテーターが「政治」から目を背け、「とにかく時間をかけずに、形だけでも決まりさえすればいい」と、事務的に議論を処理してしまったらどうなるでしょうか。
表面上の合意は得られるかもしれませんが、そこには「納得」も「正統性」もなく、後になって「あんな決定には従えない」という反発(あるいは、例えば冷笑や無関心など)を招くことになります。
「政治」はどこにでもある
「職場は仕事をする場所であって、政治の場ではない」
そう思われる方もいらっしゃるかもしれません。
しかし、本当にそうでしょうか?
政治学者のカール・シュミットは、「政治的なるもの」の本質を〈友〉と〈敵〉の区別に見出しました。これは過激な定義のように聞こえるかもしれませんが、組織内においても、派閥争いや部門間の対立といった形で、この「友/敵」のフレームは、常に構造として立ち現れています。
シュミットの議論を真剣に受け止めるなら、対立は、話し合いによって最終的に消え去るものだと楽観することはできません。立場や利害が異なる限り、緊張は残り続けるでしょう。
それでもなお、熟議的な政治観には擁護されるべき価値があると考えます。それは、対立が解消されるという期待に立つものではありません。むしろ、対立が不可避であるという前提のもとで、それでもなお語り続けるという態度の擁護です。
熟議を重視するとは、政治的対立の消滅を信じることではありません。むしろ、対立があるがゆえに、それを沈黙や排除ではなく、話し合いの空間に引き留めようとする営みなのです5。
また、フェミニズムはかつて「個人的なことは政治的である The personal is political」というスローガンを掲げました。
家庭や職場といった「私的領域」で起きていること——例えばハラスメントや、働き方の不均衡、あるいは誰かの「生きづらさ」——は、個人の問題ではなく、権力構造が関わる「政治的問題」であるという告発です6。
私たちの職場での営みは、政治と無関係な聖域ではありません。
むしろ、個人的な痛みや関係性の摩擦こそが、最も政治的なテーマとしてそこにあるのです。
なぜ、ファシリテーターは政治を学ぶのか
私たちが「じっくり読書会」で、例えばハンナ・アーレントなどの政治思想を正面から扱う理由はここにあります。
それは、与野党の討論の話をするためでも、他国の政治体制の話をするためでもありません。私たちのすぐ足元にある、オフィスやチームという「現場」をより良くするための、実践的な知恵を得るためです。
こうしたいくつかの古典的思想は、一見すると難解に思えるかもしれません。しかし、時間をかけてじっくりと読み解くことで、私たちの日常的な実践に、新たな意味と深みをもたらしてくれるのは確かです。
「人と人が集まって、何かを決める」
その行為の難しさと尊さに自覚的であるために、私たちは政治を学び、ファシリテーションという名の「政治」を実践し続けています。
ぜひこの学びと探究の旅路をご一緒いたしましょう。
記:ワークショップ設計所 小寺
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※ 2022年10月より毎月、
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付録
- 組織心理学やファシリテーションの分野では、「コンテント(内容)」と「プロセス(関係的過程)」は、集団を分析する際の基本的な対概念として用いられます。
- もちろん、多くの組織には人事制度や意思決定規定が存在し、日常的な決定は制度に従って行われます。ここで問題にしているのは、その制度の運用だけでなく、制度そのものを誰がどう作り、見直すのかという点です。労働組合などは、まさにこの制度的枠組みを通じて異議を申し立てることを可能とする重要な「政治」の一形態ですが、ここでは日々の業務の中で連続する小さな合意形成に焦点を当てています。
- 「熟議」を重視するあまり、言葉巧みな一部の人々が場を支配してしまう状況は「Liberocracy (リベラロクラシー: リベラルによる支配)」として批判の対象ともなっています。現代のファシリテーターは、この「熟議への反発」という現象とも最前線で対峙しなければならないわけですが、議論が多岐に渡るため、詳細は別稿に譲ります。
- 詳しくは、「ファシリテーターとは」のページも参照ください。
- これは「闘技民主主義 Agonistic Democracy」——対立を解消するのではなく、対話の空間に保持し続けることを重視する政治理論——と呼ばれる立場に近い考えです。
- もしこれらが「個人的なこと」なのであれば、深刻な問題がどれも「自己責任」や「セルフケア」として矮小化されることでしょう。

